5年前(2006年)になかったもの。
iPhone or Android smartphones.
mobile app ecosystem.
iPad.
Google Chrome.10年前(2001年)になかったもの。
YouTube.
Google Docs.
Wikipedia.
Gmail
Blackberries.
WordPress.
Firefox
TEXT
テキスト置き場。メインはこちら→yumemo
3月4
2月12
Landscape on We Heart It. http://weheartit.com/entry/52011958
(salad-eyesから)
2月5
昔、カウンセリングにいらしたクライアントさんで、酷い暴行を受けたのに全然平気そうにしている方がいたんです。
自分が被害者だという意識がまったくないように見えました。なぜかと言うと、見た目もしっかりしていて、普通に話すからです。
初めはあまり傷ついていないのかな・・?と思ったのですが、逆でした。「被害者」になることは、自分にとってあまりに辛すぎて、みじめだったのです。
でも、その彼女が自分が被害者であることを認められるようになると、感情を表に出すことができるようになっていき
少しずつ表情や感情を取り戻してきたんです。それはとても大きな変化でした。泣きたかったし、怒りたかったし、加害者を責めたかったに違いありません。
でも、多くの方は自分自身を責めることで、それを閉じ込めてしまうんですね。
これが、パニック障害やうつ状態を引き起こします。
うつになってしまったということは、それだけ自分の気持ちを抑え過ぎて周りに気を遣いすぎていたんだと思います。
2月1
tumblrでたくさんの感動に出会った。ぜんぶ忘れた。
1月19
◆未来の自分に期待しない
・あとでやったところで自分の才能も状況も変わらない「いま」が再びやってくるだけ
・未来の自分が行動しやすいように準備をしておく
◆快楽を捨てる
・「快楽を捨てること」と「苦痛を選択する」を一度にやろうとしてもダメ
・「いまの快楽を捨てること」に集中する。
◆分解する
・「部屋を整理する」ではなく、「本を本棚にもどす」などすぐ実行できるところまで分解する。
・分解するクセがつけば自然と「すぐやる」人になれる。
◆モノをためこまない。
・すぐやる人はモノが少ない。
◆結果を気にしない
・「結果」ではなく「数」にフォーカスする。
◆「現状維持バイアス」を外す
・「現状維持」をしながら動くことが大切
・現状からの変化を小さいものにして、少しでも「変える」ことが重要
◆「とりあえず」でやらない。
・「とりあえずやる」は心の衝動を満足させているだけで、仕事が進んでいるかとは別の問題
◆まず「準備」をする
・「すぐやろう!」ではなく「まず準備しよう!」
◆カンペキ主義をやめる
◆気持ちに余裕を持つ
・「やるかやらないか」という葛藤が起こる理由は2つ
①「時間がかかりそう」
②「疲れそう」
・ストレスや不安があるとすぐにやれない。
◆気合いを入れすぎない
・大きすぎる計画を立ててしまうと実行のとき「脳の警報」がなる。
・警報を鳴らさないために小さな計画を立てよう
◆やりたいことを増やさない
・「やることリスト」に書いた言葉は、捨てられなくなる。
・やらないことを決めるのも手
◆ひとつに絞る
・それしかやれない環境に身を置いてしまう
・どう頑張っても同時に2つ以上のことはできない。
◆机の上をゼロにする
・デスクトップのアイコンもなるべくゼロに近づける。
◆すぐ終わることも多いと心得る
・実行までのハードルを下げる。
◆一気にやる快感に気をつける
・ギリギリ感がたまらない「危機好き」タイプがいる
・少しずつためる量を減らしていく
◆締め切りがなくても動ける方法を探す
・自分で設定したデッドラインでできたという経験を多く持つ
◆「楽しい」と思い込む
◆最大の損失を先取りする
・「最大の失敗」を明らかにして、それに耐えられると考えれば葛藤を越えられる。
・やりたくない理由で最大のものを書き出す
◆なぜ「すぐやれないか」分析する。
・理由は大きく分けて4つ
①選べてない
②決められない
③準備できてない
④実行できてない
(plasticdreamsから)
認知のゆがみは10種類ほどあるといわれています。下記の中で、“自分はこれをよくやっているな”と思うものがあるでしょうか?
●認知のゆがみ
1.全か無か思考:白か黒か、成功か失敗かのどちらかで考える
2.一般化のしすぎ:いくつかの例だけを見て、「いつもそうである」「みんなそうしている」などと判断してしまう
3.心の先読み:相手の心を先読みし「返事がないのは嫌われたからだ」などと思い込んでしまう
4.双眼鏡のトリック:常にほかと比較し、「やっぱり別のランチの方がおいしそうだ」など自分の選択を後悔する
5.レッテル貼り:「自分はどうせ○○だ」と行動する前から結果を決め付けてしまう
6.責任の取りすぎ:何でも「自分が悪い」「自分のせいだ」と思い込む
7.完ぺき主義:理想が高く、ささいな欠点を見つけると極端に幻滅してしまう
8.マイナス化思考:どんな良いことが起こっても、マイナスに置き換えてしまう
9.感情的決め付け:自分がそう感じたら、事実もそのとおりになると思い込んでしまう
10.すべき思考:何でも「当然○○すべきだ」「絶対○○でなければならない」と頑固に思い込んでしまう
10月17
世界って、自分が生まれる前も、自分無しで回っていましたよね。従って「自分は必要とされていない」というのが自明の理です、特に社会にとっては。「仕事」とは、「社会にとって自分が必要とされるために、無理矢理潜り込む作業」だと思うんです。初期状態が「必要とされていない」ので、努力をしないと社会に居場所を確保できない──というのが僕の仕事観です
結局、鬱っていうのは、集中力のある人がなるんですよ。その集中力が自分の暗い部分に集中しちゃうと鬱になる。
絵が上手い人は、手に技術があるのではない。目が精確に形を捉えていて、手が描く線の狂いを感知できる。
つまり、「上手い」というのは、ほとんどの場合、「測定精度の高さ」なのである。
たとえば、料理の上手い下手は、最終的にはその人の舌の精度に行き着く。
ラジコン飛行機の操縦が上手いか下手かは、飛行機の姿勢をいかに精確に捉えられるか、という目で決まる。
咄嗟に舵が打てるか、適切な舵が打てるか、といった問題は大したことではない。
工作が上手いかどうかも、常に材料を精確に測定できるか、にかかっている。
狂いのない飛行機を作れる人は、小さな狂いを見ることができる人である。
精確な位置に穴があけられる人は、精確な位置に罫書きができる人だ。
もう少しわかりやすく説明すると、「どんなとき、どうすれば良いか」といった知識は誰でも簡単に学べるが、
一番難しいのは「今がどんなときか」を感知することであって、これは知識としては学べない。
現在の位置や状態を的確に把握できれば、もう「上手い」も同然なのである。
鏡に映った像は、なぜ実像と左右だけが逆で、上下は逆ではないのか。昔から問われてきた、そして今でも子供たちがよく問う問いである。しかし、この問いに答えようとする前に、本当に鏡は左右を逆にしているのかと問い直す必要がある。鏡に向かって右手を挙げてみよう。すると鏡の中の私も、私から見て右側の手を挙げている。鏡象の頭と私の頭が上どうし対応しているように、鏡象の右側の手と私の右側の手は対応している。そもそも光学的に考えるならば、鏡が逆にするのは、左右や上下といった鏡に対して平行な向きではなく、前後、すなわち鏡に対して垂直な向きだけである。前後が逆になっていることは、鏡と私の間に何か障害物を置くと、障害物は私の前にあるにもかかわらず、鏡象の私は鏡象の障害物の後ろにあることから明らかである。
では、なぜ私たちは、「鏡は左右を逆にする」と意識しているのか。それは、私たちは、鏡像を見るとき、鏡像と自分とを重ね合わせ、鏡像の視点から左右を語るからだ。だが、鏡像関係にある3次元の二つの物体をぴったりと重ね合わせることができない。このことは、カントの「右手と左手」の議論以来よく知られている。右手と左手のような、鏡に対して面対称な関係にある二つの鏡像体は、平行移動や回転移動で完全に重ね合わせることはできない。
類似の現象は異次元でも見られる。1次元の直線上に存在する二つの記号”-・”と”・-”は、0次元の点に対して対称で、直線上をいくら動いても、完全に重なり合うことはないが、2次元平面上で180度回転すれば、完全に重なり合う。2次元の平面上に存在する二つの文字”p”と”q”は、1次元の線に対して対称で、平面上をいくら動いても、完全に重なり合うことはないが、3次元空間上で180度回転すれば、完全に重なり合う。同様に、3次元の空間内に存在する右手と左手は、2次元の面に対して対称で、空間内をいくら動いても、完全に重なり合うことはないが、4次元の未知の世界で180度回転すれば、完全に重なり合うと考えることができる。しかし、残念ながら、そのような4次元の世界を私たちは直観することができない。
私を鏡の中の私に平行移動で近づけて重ねようとすると、左右と上下は同じで、前後だけ異なる重なり方になる。その私を垂直方向に180度回転させると、左右と前後は同じだが、上下だけ異なる重なり方になる。最初の私を水平方向に180度回転させると、上下と前後は同じだが、左右だけ異なる重なり方になる。このように、鏡像体を重ね合わせようとすると、前後・左右・上下という三つの座標軸のうち、どれか一つを逆方向にしなければならない。
では、私たちは、どの方向を逆にしているだろうか。普通、私たちは、無意識のうちに左右を逆にして重ね合わせている。人間は、ほぼ左右対称だから、左右を逆にすると、相違を最小限にして重ね合わせることができる。つまり、鏡が私を左右逆に映しているのではなく、私が、自分の身体を左右逆にして、鏡像の立場に身を置いているだけなのだ。
こう言うと、読者の中には、「鏡の中の文字は、私が鏡の向こうから見ようとしているわけではないのにもかかわらず(厳密に言えば、鏡の向こうから見ようとしていないがゆえに)左右逆になるのは、なぜか」と反論する人もいることであろう。確かに、鏡の中の文字は、想像上の平行移動や回転をするまでもなく、左右逆に見える。そして、多くの人は「鏡は文字を左右逆にする」と信じている。しかしこの常識は間違っている。
実際には、鏡は文字を左右逆に反転させたりはしない。そのことを確認するために、ひとつ実験をしてみよう。ガラスの板(あるいはサランラップやビニール)などの透明な媒体に、上下左右非対称な文字を書いて、鏡の前に持っていく。すると、透明な媒体に、私から見て正しい方向で書かれた文字が、鏡に正しい方向でそのまま映っていることに気が付く。鏡の中だというのに、左右逆ではない。しかしこれは驚くべきことではない。鏡と平行に位置する透明な媒体に書かれた文字は、2次元の図形として見るならば、前後を入れ替えても何も変化しない。鏡が、前後だけを逆にして、左右と上下をそのままにすることを思い出すならば、鏡が文字を直接見える通りに映し出すことは当然の結果である。
次に、透明な媒体の代わりに不透明な媒体を用いてみよう。白い紙に文字を書いて、それを自分の方に向けても、鏡には白い背が写るだけで文字が写らない。そこで、私は、文字が鏡に写るように、水平方向に紙を回転させる。そして、この無意識のうちに行う回転に手品もどきのトリックが隠されている。鏡には、左右が逆になった文字が映るが、それは鏡が文字の左右を逆にしているからではなく、私が文字の左右を逆にしたからだけなのだ。文字を鏡に映すために行う回転は水平方向でなければならないというわけではない。垂直方向に回転しても、鏡に文字が映る。その場合、文字は上下だけが逆で、左右は逆ではない。
文字ではなくて私の身体を回転させる場合もある。鏡を見ると、自分の背後に左右が逆になった文字が書かれた看板があることに気付いたとする。振り返ると看板には正しく文字が書かれているのが見える。すると「直接見ると、看板には正しく文字が書かれている。左右が逆なのは、鏡のせいだったのだ」と思ってしまう。しかし、この場合、振り向くという身体運動にトリックが隠されている。看板には、もともと私から見て左右逆に文字が書かれていたのであって、180度水平方向に振り向くという身体運動によって、それがもとに戻っただけのことなのだ。鏡の中で、左右は正しく上下だけが逆になった文字が書かれた看板を背後に見つけたときは、180度垂直方向に身体を回転すれば、その文字を正しく見ることができる。だがそうした看板はあまり見かけない。それは、私たちにとって、逆立ちすることよりも振り向くことの方が簡単だからだ。
鏡は、文字を左右逆にするのではなく、左右逆になった文字を忠実に映し出しているだけである。では、なぜ私たちは、看板に文字を書く時、掲げる方から見て文字を左右だけ逆に書くのだろうか。それは、何度も言うように、私たちは垂直方向に逆立ちするよりも、水平方向に振り返るほうが得意だからだ。友人に背後から声をかけると、その友人は振り返ってこちらに顔を向けるのが普通である。二人の人間が対面する時、両者は、左右の方向は逆だが、上下の方向は同じである。看板を掲げる時、看板を見る人と看板を掲げる人は、対面する時と同じ身体関係にある。だから、看板を掲げる人は、自分から見て、上下は同じで、左右だけ逆の文字を書かなければならない。もし人間が、振り返りよりも逆立ちのほうが得意な動物ならば、友人に「やあ、こんにちは」と後ろから声をかけると、友人は逆立ちをして顔をこちらに向けるのが普通となるに違いない。そのように二人の人間が対面する時、両者は、左右の方向は同じで、上下の方向は逆となる。そして、看板を掲げる人は、自分から見て、左右は同じで上下だけ逆の文字を書かなければならないようになる。いかにも奇妙な世界だが、もし人間が上下対称・左右非対称の動物であるならば、それほど不自然ではない。
鏡像が左右だけ逆で上下が逆ではないのは、鏡の向こうにあると想定できる他者の位置に自分を仮想的に移し置く時、自分の身体を水平方向に回転させるからだ。にもかかわらず、多くの人は、鏡像が左右だけ逆であることをあたかも鏡像の客観的性質であるかのように誤解している。他者の立場に立つ主観的容易さをその他者の客観的性質として物象化する例は他にもある。例えば、人間の命は動物の命よりも高貴であるといった常識がそれである。動物に対してよりも人間に対しての方が、相手の立場に立つという仮想的な運動が容易である。だから、動物が殺されても平気でいられる人も、人間が殺されることに対しては、我が身のことのように悲しみを感じる。人間の命は動物の命よりも高貴であるといった常識は、こうした同情という、相手の立場に立つ仮想的な身体運動の容易さから帰結するのであって、命の客観的性質に基づくのではない。
9月24
もう一つ、重要な論点を付け加えておこう。
文化産業はあらかじめ受け取られ方の決められた楽しみを、産業に都合のよいように人々に与え続けるのだと言った。私たちはそれを受け取り、「楽しむ」。
だが、人間はそれほどバカではない。何か違う、これは本当じゃない。ホンモノじゃないという気持ちをもつものだ。楽しいことはある。自分は楽しんでいるのだろう。だが何かおかしい。打ち込めない……。
アレンカ・ジュパンチッチ[1966-]という哲学者が、大変興味深く、そして、大変恐ろしいことを述べている。すこし言葉を足しながら紹介しよう。
近代はさまざまな価値観を相対化してきた。これまで信じられてきたこの価値もあの価値も、どれも実は根拠薄弱であっていくらでも疑い得る、と。
その果てにどうなったか? 近代はこれまで信じられてきた価値に代わって、「生命ほど尊いものはない」という原理しか提出できなかった。この原理は正しい。しかし、それはあまりに「正しい」が故にだれも反論できない、そのような原理にすぎない。それは人を奮い立たせない。人を突き動かさない。そのため、国家や民族といった「伝統的」な価値への回帰が魅力をもつようになってしまった。
だが、それだけではない。人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。なのに、世間で通用している原理にはそんな力はない。だから、突き動かされている人間をうらやましく思うようになる。たとえば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。人々は彼らを、恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。
自分はいてもいなくてもいいものとしか思えない。何かに打ち込みたい。自分の命を賭けてまでも達成したいと思える重大な使命に身を投じたい。なのに、そんな使命はどこにも見あたらない。だから、大義のためなら、命をささげることすら惜しまない者たちがうらやましい。
だれもそのことを認めはしない。しかし心の底でそのような気持ちに気づいている。
筆者の知る限りでは、この衝撃的な指摘をまともに受け止めた論者はいない。ジュパンチッチの本は二〇〇〇年に出ている。出版が一年遅れていたら、このままの記述では出版が許されなかったかもしれない。そう、二〇〇一年には例の「テロ事件」があったからだ。
ジュパンチッチは鋭い。だが、私たちは〈暇と退屈の倫理学〉の観点から、もう一つの要素をここに付け加えることができるだろう。大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だということである。食べることに必死の人間は、大義に身を捧げる人間に憧れたりしない。
生きているという感覚の欠如、生きていることの意味の不在、何をしてもいいが何もすることがないという欠落感、そうしたなかに生きているとき、人は「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望する。大義のために死ぬとは、この羨望の先にある極限の形態である。〈暇と退屈の倫理学〉は、この羨望にも答えなければならない。
ツイッターbioに「つぶやきは全て個人的なものであり所属する団体、組織とは一切関係ありません」と断る人を見るが、むしろ「私のつぶやきは第3宇宙の破獄惑星バルデビリトと破壊神ヌティアワス王子の見解を代表するものです」と書いた方が「マジメに聞かなくていい人なんだな」と分かっていい。
自分が年老いて動けなくなったら、障害者になったら、生活保護を受ける「社会のお荷物」状態になったなら、迷わず安楽死させてもらう、と一見潔い決意めいたことを言う人もいる。しかしわたしはそういう「宣言」を半分笑いながら聞くことにしている。自分が少しでも楽に生きたいがために社会保障費を食いつぶすような他人は死んでもらうのが当たり前と思うぐらいにおのれの生に執着している人間が、年老いたから、障害を持ったからといって自分が死ぬべき側になったことを簡単に受け入れられるものだとはちょっと思えないからである。わたしの母は相方が「身も蓋もない」と称するほどの唯物論者で筋金入りのリアリストなのだが、その母ですら死を選ぶ自信はないという。そして「リアリストいうのはな、自分がそんな状態になったときにどんだけ理不尽な希望を持ってしもうて、どんなブザマな姿でお願いしてしまうやろかってことを現時点でありありと想像できてこそやで」と言って笑う、この人でさえなければと思うことはよくあったが、やはりわたしは間違いなくこの人に育てられたのだなと時々思う。